第19話    庄内藩と釣り」   平成25年09月04日  

酒井忠勝が庄内に入部して来た時に、何故藩都に鶴ヶ岡城を選んだかと云う理由を考えて見た。酒井忠勝(左衛門尉系の酒井氏) が元和8年(1622年)67日に最上義俊(最上義光の嫡男)が改易されたのに伴って、出羽庄内138,000石に領地替えを命ぜられ、信濃松代藩10万石から移封されて来た。当時最上川河口で商業が盛んで日本海側有数の交通の要衝であった酒田湊の亀ヶ崎城(以前東禅寺氏の居城でその後最上義光が命名)か、大宝寺氏の居城であった鶴ヶ岡城(同じく最上義光が命名)の両者択一で相当に迷ったらしいと云うは話が伝わっている。
 しかし、最終的に酒井忠勝は鶴ヶ岡城を本城と定め、亀ヶ崎城を支城(一国一城令の特例で酒井藩は特に鶴岡、酒田の二城が認められていた)とした。鶴ヶ岡城は地図を見れば分かる事だが、東、西、南側との三方が山に囲まれている。そして北側に広大な平野が広がり、その先に秀峰鳥海山と云う秀峰が聳え立っている。
 以前に庄内藩の釣りの始まりは、殿様の温海温泉の湯治の余興で磯の浜遊びから始まったと書いたが、何故に庄内藩が「鳥刺し」と「磯釣り」の二つを遠足と称し推奨するように至ったのかと云えば、それは藩主や藩の上層部が泰平の世に馴れた武士たちの体力の低下を憂い、遊びを通して体力の増強ひいては武芸の邁進を考えての事だったとも書いた。藩の推奨があれば堂々と侍たちは釣りと云う遊びが出来た。城下より片道四里と云う山道を数本の竿を担ぎ、更に食事や道具などを肩に下げて往復し、朝まづめの釣りにはまだ暗い時間に城下を立たねばならなかった。早朝の釣りに間に合わせる為には早足で歩くから、正に夜間行軍の延長の如くである。これについては軍学者であり、釣りの名人でもあった秋保親友の「野合日記」に詳しく書いてある。
 鳥刺しも同じである。獲物を獲る為に山野の道なき道を闊歩し、侍たちは自然に足腰を鍛えられた。それらすべてが藩や殿様の推奨ある遊びだから、武士達も自然に熱も入ろうと云う物である。
 鳥刺しは別として、魚釣りは酒田の亀ヶ崎城が本城と定められたとしたら、釣りは決して藩主の推奨は得られなかったであろうと考えられる。周りが砂浜であり、釣り場は城から3キロ以内の距離しかなく歩行練習のする余地がないからである。又酒田湊は商人町の為、魚釣りのような遊びは年寄や暇人の遊びとしか映らなかった。その結果、江戸の釣りと同じように暇人の遊びとしての釣り、所謂遊釣としてとらえられただけであろう。その為鶴岡のように武芸の一端としての釣りと捉えられる事は、まず100%なかったに違いない。ましてや庄内の釣りや庄内竿の発展等も望めなかったであろうと考えられる。